入るを量りて出ずるを制す。『礼記』に記述のある国家予算の基本とされる言葉です。
もちろんこの言葉は「家計」にも当てはまります。
フルリタイアするとフローとしての収入は年金と投資収益を除くとありません。
量るべき収入は基本的に明確です。
したがって、フルリタイアを考えるにあたって大切なのは、出ずるを制することになります。
そのためには「フルリタイア」という言葉を金銭的な支出に置き換えて表現しなければなりません。
フルリタイアという言葉には、輝きがあります。フルリタイアした以上、他人に胸を張ってその状態であることが告げたいものではないでしょうか。
過剰な節約などをして、裏に回れば寂しい家計の繰り回しで達成される「働かなくてよい状態」では、フルリタイアとは言いづらいと思います。かといって、収入がたくさんあるときのように、見境もなくお金を使っていてはインフローがない状態のフルリタイアは永続的には成立しません。
私は「出ずるを制す」とは、基本的にリタイアする直前の「普通の」暮らしぶりを続けることにしたいと思います。
わざわざ「普通の」とつけさせてもらったのは、フローがある状態ではなくなった以上、過剰なぜいたくはやはりやめるべきだと考えています。ダメとは言っていません。最低限、ベースラインの「フルリタイア」を議論するためには、過剰なぜいたくのない普通の暮らしを続けられるところがスタートラインに思えます。
フルリタイアしたからと言って三食は家族がそれまで食べていたのと同じように食生活は続けます。住んでいる場所も変えません。服装や、持っている車も、贅沢にならない程度であれば変えません。たまにはちょっとした食事やお出かけ・旅行もいいのではと思います。
それであれば、内側から見ても外側から見ても、暮らしぶりは変わりません。
そこがスタートラインです。その生活にどれだけお金がかかるかを決めること。それが出ずるを制す、という言葉の意味になります。
フルリタイアを企画するためには、「普通でない」部分はいったん思い切って削る必要はあるでしょう。
たとえば家族で海外旅行。それもかなうフルリタイアであれば素敵ですが、ベースラインのフルリタイアを考えるときには難しいでしょう。
たとえばパソコンの画面を見つめて、勢いでネット通販でお金を使うのもよろしくないだろうと思います。こういったお金は塵も積もれば山となるの典型です。小遣いも厳しく見直すべきです。
さらに、例えばですが、A地点からB地点へ向かうのであれば、最も合理的でかつ安価な方法を選択します。健康も考え合わせて、時間があるなら歩くのもいいでしょう。タクシーはよほど危急なときのためにとっておきます。
冗費は削ります。ただ使わないのではありません、出ずるを制す、つまり許容の範囲で計画的に支出することになります。これが、フローがあるときとの大きな違いとなります。
フルリタイアまで時間があるのなら、四半期でもそういった暮らしを予行演習してみるのもいいのかもしれません。
一般的に冗費を使わないのであれば、自宅にいる時間が増えます。実際、心は休まるように思います。
限られた冗費を使う計画はまた楽しく、それゆえ冗費が光ります。
セミリタイアした私は今の自らの暮らしぶりをみてそう思います。
この新しい暮らしが、子供が独立した後に残るパートナーと二人(おひとりであればあなた自身)にとって、幸福に感じられるものかどうか、これは話し合う必要があります。
もし、それで合意できるなら、ようやく本格的なフィナンシャルプラニングが始まっていくことになります。
「入るを量りて出ずるを制す」がフルリタイアへの第一歩。

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